…すべての現代人は差こそあれ精神病に侵されている
精神病に侵されている人の世界観と現実社会との対比を手がかりにして、現代に生きる私たちの新しい自己表現を探ろうとする作品。
ひとりの神経症の男の日記を軸として構成され、特にストーリーはない。
孤独の中で、常に社会と闘い続けるしか存在することが出来ない彼の日常生活。
なにかにとりつかれたように消毒を繰り返す儀式。
彼の少年時代の記憶。
舞台は男の心的イメージとその男を取り囲む現代社会を拮抗させるかたちで展開してゆく。
会場の三面には舞台と客席を取り囲むように巨大なスクリーンがあり、数台のビデオプロジェクターで映像が流されている。
また舞台上にはテレビモニターがついたオブジェが規則正しく並べられ、モニターにはスクリーンの映像とリンクした映像が映る。
そしてノイズ混じりの音楽が大音量で流れ、その中で俳優は男の日記を中心とした台詞と、ダンス的な動きを用いて、映像と絡みながら演技してゆく。
セリフは日本語で書かれたものだが、海外での公演を考え合わせ、日記の部分については全編英語の字幕、あるいはアナウンスが挿入されている。
1998 U実験演劇祭と名付けられたこのイベントにはOM-2の他、丹野健一、Morning
Landscapeなど、
「実験的」演劇の第一線で活躍する若手が集まった。
ここでOM-2が見せたものは、今まで彼らが避けてきた「プロセニウム舞台」だった。
「ノクターナル...」で、頑なに演劇空間を観客の中に求めてきたOM-2が、客から一歩下がり、語りかけ、問いつめる。
欧米やアフリカなど世界各地で評判を呼ぶ劇団・OM-2が、四年ぶりに日本公演を果
たした。新作「K氏の痙攣」は現代人の精神病理を扱う。 息を呑む場面が次々に展開。半透明ガラスのドアを行き来して踊る。肥大なまでに肉付いた全裸女性の叫び。爆音とともに炸裂する強烈な逆光。
イメージだけでも十分に観客を揺さぶるに足る。だが、演出・真壁茂夫が作るシーンは、イメージの奥底までをもえぐり出すかのようだ。例えば、顔面
に顔面の映像を映すなど、出演者をスクリーン代わりに映像を投影。人格の多面性を暴いてみせる ...(中略)...
昨今、演出家やアーティストにとって「イメージ」なる言葉は、ともすれば言い訳として都合がいい。舌足らずで曖昧な表現もイメージの一言で片づけられる。その点、OM-2の「K氏の痙攣」は安易なイメージのみに依存しない表現の強度を示したといえる。
新川 貴詩、「人格えぐりの舞台」 AERA 1998.4.6
現在を構成している複雑で重層的な要素、記憶を引き出し想起させる観念連合、そうしたイメージを再構成するには時系列の「再現」(話法)ではもはや追いつけない。...(中略)...この劇はその地平線を刺し示すと共に、現在に触れるにはこうしたドキュメント的な手法が有効であることも示唆している。
西堂 行人 「今月選んだベストスリー」 テアトロ 1998年6月号