OM-2 「作品No.6」 - LIVING Ⅱ-
3.6Fri~.9Mon
複数の批評家からその年のベストワンと評された「作品No.4」-リビング-から出発した作品。
私たち個人や、社会が抱える問題をモチーフとして、私の<核>に迫ろうとする。
真に生きようとする人間の、それぞれのリビング。
■ 会場・日程
d-倉庫 荒川区東日暮里6-19-7 03-5811-5399 月曜定休18:00~23:00 2009年3月6日(金)~9日(月) 開演 19:30 * 8日(日)のみ18:00 開演の30分前より受け付け開始
以来、常に実験的、前衛的であり続け、ヨーロッパ、アジア、アフリカ、北米などの海外でも高い評価を得ている。
最近では完全に台本を排除し、言葉によるテーマ、コンセプト、方法を取り去り、即興の練習を積み重ねることによって創られる、複数回行うことを前提としない一回性の作品創りをしている。
美的に優れたものを提示することでもなく、ことさら何かの行為を行うのでもなく、言葉による意味や解釈、分析を拒否し、ひたすら自己と闘い続ける。人間の「核(生きる根拠)」のみをさらけ出し、そこにこそ意義を見出そうとする。
OM-2 『作品No.4-リビング-』 柱のそばで女がひとり揺らめく。皿に蝋燭を灯し、と思うと突然手を放し、ガチャン。皿の落ちた鈍い音の衝撃が緊張感を与え、舞台が始まった。旅芸人のようなカバンを持った男女が、エロティックな行為半ばで崩れていく。その背中の貼り紙で、リビングルームを舞台とした寸劇を見せていたことがわかる。舞台奥の引っ込んだアルコープから激しく通過する電車の音と光が流れ、女がそこでうごめく。痙攣する男、白チョークで言葉を壁や床に書く青年などが入り混ざり、そこに太った男、佐々木敦が登場して、舞台に地割れを起こし始める。 佐々木は奥のテーブルに座り、マイクで語り出す。それは自分がいじめられた経験の陰惨な話。 妙な抑揚で聞き取りにくいが、そのテキストが壁に投影され、観客は物語に引き込まれる。いじめた男の一人が電車に轢かれた話などを語る佐々木の顔が、前に付けたカメラから背中に背負ったプロジェクターで投影され、重たい雰囲気が立ち込める。赤い塗料を顔にグチャグチャ塗り、血まみれの姿で突然椅子を倒し照明を壊すなど、暴力的な雰囲気が迫ってくる。 「作品No.2」で巨大なバルーンの中で消火器を噴霧し、「作品No.3」ではゴミ箱の中のカメラで自分を写しつつ、語り身もだえた佐々木敦。そのコンプレックスがリアルに迫ってくる。これは観客誰しもが持つ、それぞれのコンプレックスを刺激してやまない。いじめ、虐げた者と虐げられた者の思いは、こういう場に溶けていくのかもしれない。架空かもしれぬ物語だが、その自己暴露的、私小説的心情吐露が強いリアリティをもたらす。 これに対し、舞台上手でシルクハットに黒のフォーマルな男二人が、体を斜めに傾げて立つ姿は、マグリットかデルヴォーの人物にも見え、正のバランスを崩す象徴のように機能している。さらに青年たちがみもだえ、一人は全裸になって捩れていく。ノーマルな感じで、崩れていくことがうまくはないが、それがいい。彼や黒服たちは劇団自動焦点の役者らしい。タイトで抽象的、マイムのような雰囲気も持つ劇団が絡んだことで、OM?2の「異物感」が見事に浮かび上がった。 今回の舞台は、自動焦点の脚本・演出家佐々木治巳のテキストと、佐々木敦の書いたテキストに、OM?2の真壁茂夫が手を入れながらつくりあげたという。壁や床に書かれるアフォリスムといえる抽象的な言葉、寓話のような動物話と私的ないじめ話がつながっていく。二人の佐々木の抽象とリアル、最も両極のテキストが混在し、そのコントラストが美しい。これまでのOM?2の作品に比べるとわかりやすくシンプルだ。テキストを示すと通常「読み」は限定されるが、この舞台では、混在するテクストが読みの範囲を広げた。作品タイトルも抽象的だが、抽象とリアルのせめぎ合いが惹きつける。 同じフェスティバル、「MSAコレクション」では岸井大輔、木室陽一らによる『(-)2LDK』が上演された(麻布ディプラッツ、4月5日)。これは観客席も舞台も通路にして、2LDK的な部屋で展開される日常が、あちこちで同時に繰り広げられ、観客が見て回るという趣向だった。またドイツのヤン・プッシュの『マッチ』は(世田谷パブリックシアター、4月8日)、男女の愛の争いをダンスで描く作品だが、これも2LDKほどの空間で映像を多用して展開するものだった。この2つはあくまで人間の日常を舞台空間に置くことで、非日常化しようとしていたが、OM?2の『リビング』は、日常のなかにある非日常を露呈させる。いじめが日常となった男、痙攣する男たち、電車に轢かれるイメージなどが、次々とリビングルームに立ち現れる。 リビングという言葉は、普通はリビングルームの略語として使われるが、この舞台ではliving、「生きている」という意味が重ねられているのだろう。いじめられることの告白で生き続ける佐々木は、僕らのなかのいじめの構造を露呈するが、同様に、全裸になり痙攣する男は、演じ舞台に立つこと自体を露にし、文字を書き続けて壊れていく男は、脚本を書く人間の歪みを呈示しているのかもしれない。まさにリビング、生きていることのリアリティといえるだろう。それを支えているのが、佐々木敦の存在だ。演じられる日常ではなく、架空の話としても、強烈かつリアルに迫ってくる。OM?2の芝居では、当たりさわりのいい日常ではなく、日常のなかに潜む混沌、生きることの困難とリアリティが激しく観客にぶつかる。それが苦痛である人もいるだろう。しかし、このリアリティを回避することは、僕たちの本当の日常、そして生きること(リビング)自体に目をつぶることのような気がする。 (志賀信夫/舞踊批評) ~CUT IN Vol.50 2006年5月号より~